マタイ7章

7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。

 ルカの福音書では、マタイ五章の終わりの話しと七章の冒頭の話がくっついています。六章の内容が抜けています。ルカの福音書では、裁いていけないことは、特に迫害を受ける中で、敵を裁いてはいけないことと関連づけて考えることができます。また、敵を赦すことも求められています。

 マタイの福音書では、この文は突然記されていて、文脈に沿って考えることができません。それゆえ、特定の事柄との関係ではなく、さばいてはいけないのです。その理由が後半で説明され、自分が裁かれないためです。自分を裁く方は、神様です。私たちが人からどのように裁かれたとしても、些細なことです。しかし、私たちが裁くことは、裁きの権を持つ神の主権を犯すことです。少なくとも、そのために裁かれることになります。さらに、私たちは、神のように正しく裁くことができません。全てを完全に知っているわけではないからです。その点に関しては、二節でどのように裁かれるかが示されています。

 なお、教会が罪を犯した者を裁くことは認められています。それは、教会の裁きは、天が追認されるからです。

マタイ

18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。

18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。

18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

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 その裁きをなすにあたっては、少なとも二人が心を一つにして祈ることが必要です。神の前にそれぞれが正しく裁くことができるように祈る必要があります。一人の強い人の裁きに追認するようなことがあってはなりません。それぞれが神の前に純粋に正しい判断基準で裁くことを祈り求めて裁くべきです。父は、それを叶えてくださるし、その裁きは、天が追認されます。いわば、教会には、この点に関して裁く権が与えられているので、裁くことができるのです。それ以外には、そのような権威は、与えられていません。誰をも裁いてはいけないのです。

7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。

 他の人を裁くならば、その判断基準で裁かれることになります。神から、その人の判断基準で裁かれるのです。

7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

 その人は、自分の判断基準で人を判断します。しかし、それは、正しい判断ではない場合があるのです。彼は、自分の目に梁がありながら、気付かないのです。自分に不正がありながら、それに気付いていなのです。

7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

 そして、正しい判断ができないにも関わらず、他の人の目の塵のような小さなことに目をつけて、それを取らしてくださいと言うのです。しかし、自分の目に梁があるように、自分自身が取り除かなければならないものを抱えているのです。それに気が付かず、物事を判断しようとするのですから、正しく判断できるはずがないのです。自分の大きな不正に気づくことさえできないのですから。

 自分の不正を不正だとわからないのですから、少なくともその点に関しては、決して正しい判断ができないのは明らかです。

7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 人を裁ばいていながら、自分の不正に気付かない偽善者に対して、まず、自分の目から梁を取り除くように、自分を正すことを命じられました。そうすれば、はっきり目が見えるようになるように、正しい判断を下すことができるようになるのです。

7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。

 犬は、卑しい者の比喩です。そのような者に聖なるものを与えてはいけないのです。犬の卑しさは、聖なるものの価値を知ることがないことです。神の言葉も彼にとっては、なんの価値もないのです。それで足で踏みつけるのです。

 豚は、真珠の価値を理解しません。豚は、蹄が分かれ、爪が完全に分かれたものです。爪が分かれることは、この世に属するものではないことを表しています。しかし、反芻しないのです。反芻は、御言葉をよく咀嚼し、受け入れ従うことの比喩ですが、それをしないのです。神の言葉を信じて神のものとされています。しかし、神の言葉に従うという生活のない者のことです。この世の欲にとらわれた者の比喩です。そのような人に、天の宝を表す真珠を投げてもそれを価値あるものと考え、自分のものにしようとはしません。それを踏みにじるのです。

 真珠は、聖書では最も価値ある宝石です。それは、最も価値ある宝である天の報いについ教えています。

 二者の立場は違いますが、いずれも良い物の価値を認めず、それを提供する者に攻撃を加えるのです。自分の生き方を変えることはありません。かえって良いものをもたらす人を攻撃するのです。ちょうど預言者が迫害されるようなものです。

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

 求めるように言われました。誰でも求めるならば受けるのです。神様を求めるものに神様が応えないでしょうか。御言葉を求めるものに教えないでしょうか。従うことを求める者に力を与えないでしょうか。

7:9 あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。

7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。

 人にとって、子が求めるパンや魚を与えないで、石や蛇を与えることはないのです。

7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

 それで、天の父は、求める子たちに良いものを与えないことはないのです。ですから、求めるならば必ず与えられるのです。

7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

 神様は、人に対して求めるならば良いことをしてくださるのです。そうであるならば、私たちは神の子として、人がしてもらいたいことはなんでも、してあげるのです。これが律法と預言者によって示されていることです。言い換えるならば、隣人を自分と同じように愛しなさいということです。それが、神の栄光を現すことになります。

7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

 狭い門は、命に至る門です。いのちは、神の御心を行って歩み、御国で報いを受けることです。その門は、なんとも狭いのです。しかも、道も細いのです。そこを歩む人は、わずかです。その門を見出すことができないのです。

 人は、むしろ多くの人が歩いてゆく、広い門から入る広い道を入って行きます。一見したら、楽な快適な道を選ぶのです。しかし、滅びに至ります。信者に関して滅びという言葉が使われますが、地獄の滅びに入ることはありませんが、神の前に死んだ者であり、実を結ばす、報いがない状態です。肉によって生き、御心を行わないならば、滅びなのです。

7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。

 神の御心を行う者が命を得るためには、正しい教えのうちを歩まなければなりません。偽預言者には強く警戒しなければなりません。歩みを台無しにするからです。

 偽預言者は、神の羊のように従順ななりをしてきます。しかし、偽預言者がいることに対して用心していなければならないのです。彼らは、内側は、貪欲な狼で、他の信者を食い物にするために来るのです。

7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。

7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。

7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。

7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。

7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。

 偽預言者については、彼らの結ぶ実で見分けることができることを教えられました。良い実を結ばないのは、彼らが悪い者であるからです。

 預言者には、御言葉に相応しい歩みが求められるのです。

 良い実を結ばない偽預言者は、主が取り除かれます。

7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 ここで、天の御国に入ることは、御国において報いを受けることを言っています。これは単に主イエス様を信じていわゆる救いの立場を受けることではありません。

 御国において報いを受けることができる者は、父の御心を行う者です。たとい、イエス様を「主よ、主よ。」と言い表しても、それだから報いを受けるということはないのです。父の御心を行わなければ、報いを受けることはありません。

7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』

 その日、多くの者が言うのです。「主の名によって預言し、悪霊を追い出し、多くの奇跡を行った。」と。彼は、父の御心を行ったと主張するのです。たしかに、主の名によって業をなすならば、父の御心を行うことと考えられます。しかし、そうではないことが明確に明らかにされます。

7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

 彼らが主の御名によって業を行ったとしても、父の御心にかなったものでなければ、主が心を留めることはありません。彼らが行っていることは、「不法」なのです。すなわち、父の御心に適っていないのです。それをいくら行っても報いはないのです。

 人々の前に立派な働きをしているのに、報いがないことは悲しいことです。神様の御心を行うということを心がけることが大切です。

7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。

 雨が降って洪水が押し寄せるときは、主の裁きの時です。主は、その人の行いを評価されます。

 どのような人が良い評価を受けるかというと、主が語られた言葉を聞いて行う人です。

 その言葉を行う者は、岩の上に家を立てた人のようです。家は、その人の受ける報いです。岩は、その行いの土台です。父の御心です。その上に建てられた働きは、損なわれません。その報いは保たれるのです。

7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。

7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

 砂は、父の御心でない土台を表しています。そのような教えあるいは考えに基づいて事をなしたとして、その働きを築き上げたとしても、それは、主の裁きのときには、ひどい倒れ方をし、壊れ方をして跡形もなくなります。報いはないのです。

・砂について

黙示録

12:18 そして、竜は海辺(海)の砂の上に立った。

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 「砂」の上に立ったことは、神の御心でない考えに立っていることを表しています。海は、神に反抗する勢力を表しています。

7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。

7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

 群衆の驚きは、その教えが権威ある者としての教えであったからです。神からの教えとして教えられました。その内容がそれをよく示しています。それを明確に語る力がありました。

 律法学者たちは、人からの教えを教えとして教えていたのです。少なくても、神を恐れ、神の言葉の中に生きている者としての力強さはありませんでした。